自傷行為と画家
自ら耳をそり落としたことで有名な画家は、みなさんご存知のフィンセント・ファン・ゴッホです。自傷行為は刑法的には被害者自身の同意があるので犯罪は成立しないのですが、昔、学生の頃、刺青は自傷行為だけど公序良俗に反するから違法だ、いや、違法合法に社会的規範を持ち出すべきじゃない、あくまでも結果無価値の観点から考えるべきだ、公序良俗なんて国家の奴隷になるに等しい!なんて、学生街の喫茶店で真顔で唾を飛ばして議論していたのですから、女性にモテるはずがありません。お酒ではなくコーヒーでよくそんな青臭い議論ができたなと、今では思います。
ゴッホは、そんな辛気臭い議論とは別世界に住み、南仏アルルで芸術共同体構想を練り、今で言う共同アトリエとして黄色い家を借りたのでした。
どうしてゴッホがパリから南仏に移ったかというと、その頃、パリではジャポニズムがブームで、浮世絵の、不思議なフラットな絵にパリの画家たちは魅せられていたのですが、ゴッホは、浮世絵がフラットなのは(つまり顔に印影がないのは)、日本がとてつもなく太陽が強く輝く国で、光が強すぎて顔に影すらできないのだろうと考え、陰湿なパリを去り、南仏に移ったのです。
話を元に戻しますが、黄色い家を借りて、いよいよ共同アトリエを実現しようと考えたとき、その相棒候補は、ポール・ゴーギャンしかいませんでした。異端児ゴーギャンなら、古臭いパリの画壇に反抗し、芸術に革命を起こすと感じていたのです。ゴッホは何通もラブレターをゴーギャンに送り、パリで画商をしていたゴッホの弟テオも、ゴッホの精神状態が心配で、ゴーギャンにゴッホの側にいて欲しい、側にいてくれるなら専属契約を結び、ゴーギャンの絵を毎月買い取るとまで申し出たのです。それでゴーギャンはアルルに行く決心をしたのです。ゴーギャンからその知らせを受け取ったゴッホは、心踊り、大喜びでした。ゴーギャンの部屋を用意し、まばゆいばかりの向日葵の絵で埋めつくして歓迎の支度をしたのです。それが今や誰も知る向日葵の絵なのです。
こうして、共同アトリエでの共同生活が始まりました。最初はお互いに刺激を受け、上手くいっていたのですが、絵画の方向性を巡って口論が尽きず、居心地の悪い環境となりました。ゴッホは癇癪持ちで、ゴーギャンを芸術家として尊敬しているのに熱くなると、つい憎まれ口を叩き、激しくゴーギャンを罵しるのです。そして、居た堪れなくなったゴーギャンは、とうとう黄色い家を去ります。
「なんて馬鹿なことをゴーギャンに言ってしまったんだろう」、ゴッホは失意のうちに、衝動的に自らの耳をそり落とし、それを娼婦に渡してゴーギャンに届けて欲しいと頼むのです。こうして、ゴッホは精神病院に入りました。
当時のゴッホとゴーギャンの共同体生活を偲ばせる作品があります。ゴッホとゴーギャンが一緒に写生に出かけたとき、ゴッホを描いたゴーギャンの絵です。
芸術家は哀しい人たちです。