少年非行と芸術
19世紀後半、パリで活躍した画家モーリス・ユトリロは、モディリアーニや藤田嗣治と同じく、モンマルトル、モンパルスを拠点にボヘミアン的生活をしていたエコールド・パリの画家でした。
ユトリロの幼少期は恵まれませんでした。母親は、自由奔放で、男あさりに毎日明け暮れ、育児も家事もせずに夜な夜なパリの歓楽街に繰り出しては酒に溺れ、取っ替え引っ替え違う男とベッドを共にする、そんな生活を送っていたのでした。ユトリロの父親が誰であったかもわからないくらいその生活は乱れていたのです。その女は、シュザンヌ・ヴァラドンで、彼女は、ルノワールやロートレックのモデルにもなりました。
そういう次第で、ユトリロは、幼少期、おばあちゃんに育てられました。しかし、ユトリロにはやはり母親が必要でした。その母親が家を顧みない環境の中で、母性愛に飢え、孤独感に苛まされ、情緒不安定な子供となってしまったのです。おばあちゃんもほとほと困ってしまって、夜、孫を安心させて寝かしつけるために、毎晩、スープに葡萄酒を少し入れて飲ませて眠らせていたのです。すると、ユトリロはぐっすり眠るようになりました。
ところが、幼いユトリロは、次第にお酒に強くなってしまいました!ユトリロが、それまでの葡萄酒の量ではなかなか寝つけなくなってしまったので、おばあちゃんは、スープに混ぜる葡萄酒の量も次第に多くなっていきました。そして、ある朝、おばあちゃんが起きると、孫のユトリロは、テーブルでコップに葡萄酒を並々ついで飲んでいるではないですか!そして、わずか8歳の若さでアルコール依存症治療の病院に入院してしまったのです。
数ヶ月後に退院した後もアル中は完治せず、おばあちゃんに乱暴な口をきき、お酒を要求するようになり、おばあちゃんも葡萄酒を隠すのですが、ユトリロは苛立って物を壊したり、おばあちゃんを罵倒したりするようになって、手をつけられない子になってしまいました。学校にも行かなくなり、仕事もアル中のせいで長続きせず、酒を飲んでは街灯を壊すわ、喧嘩はするわで、度々警察のお世話になり、モンマルトルでは札付きの問題児になったのです。
こうして何度目かのアル中治療入院のときでした、さすがの母親ヴァラドンも息子のことが心配になり、精神科医に相談したところ、その医者は、酒から興味を逸らし、心の安定をはかる手段として、ユトリロに絵を描かせることを勧めたのでした。ヴァラドンは、そこで、半ば無理矢理、ユトリロに絵を描かせることにしました。これが、巨匠ユトリロの出発点でした。近時、非行少年の更生や認知症改善効果があると言われている「臨床芸術」の走りをそこに見て取れるのです。
ユトリロは絵を描くことが大好きでした。絵を描いているときは何時間でも夢中になってキャンバスに向かいました。でも、それで全て上手くいった訳ではありません。ユトリロが、パリの街中にイーゼルを立てて街の風景画を描いていると、与太者不良たちが、誰もが知る厄介者のアル中ユトリロを見つけるや、そのイーゼルを蹴飛ばしては喧嘩を売り、度々邪魔をしていたのです。ユトリロももう外では絵どころではありませんでした。そこで、外で絵を描くことを諦め、家の中で、絵葉書を見ながら風景の油絵を描くようになったのです。
こうした不遇な芸術環境は、逆に、ユトリロに幸運をもたらしました。19世紀後半は、モネやルノワール、ピサロなどの画家たちにより、自然の光を浴びた戸外制作によって生み出された新しい芸術運動、印象派が時代を席巻していましたが、いわば、「屋内制作派?」のユトリロは、印象派とは全く異なった画風を生み出したのです。それは、「白の時代」と呼ばれて有名になった、ユトリロの独特の世界観を表現したものでした。白を基調とした、人影もない、どこか寂しげな彼の絵を見ていると、ユトリロが幼少期に抱えていた孤独感や母性愛への枯渇感が、パリの街が醸し出す哀愁と交差して、詩情豊かに表現されていて、その絵の前から動けなくなるのです。