ベレンコ中尉亡命事件

ベレンコ中尉亡命事件

函館地方検察庁での実務修習が始まったものの、とにかく函館は平和な街で事件が何もない。修習指導検事も、4人もいる修習生に割り当て配点する事件がなくて困っていた。偶に在宅事件が配点されたが、物足りなかった。指導検事自身が、いつも暇そうに「あー事件来ないかなあ」と言って、検事部屋のソファでゴロゴロしてた。
私は、何もすることがない日は一人地検の記録庫に篭って昔の検事たちが扱った古い事件の記録を引っ張り出しては床に胡座をかいて座り込んで読み耽っていた。

なんと言っても、函館地検は歴史が古く、明治維新の前から北海道の玄関口として発展し、裁判所も北海道で一番古く、かつては札幌高裁函館支部も設置されていた。戦前まではその裁判所の検事局が函館地検の前身である。法律家の大先輩たちの作成した供述調書や裁判記録を読んでいると、これから自分もこの先輩たちに続いて大法律家になってみせるんだと、気分高揚、ワクワクしながら読み進めた。

そんなとき、偶々目についたのが、出入国管理及び難民認定法違反、航空法違反、銃砲刀剣類等不法所持罪、脅迫罪等の、何冊にも及ぶ膨大な刑事記録だった。それは、あの世界を震撼させたミグ25事件、ベレンコ中尉亡命事件の記録だった。
実は私はこのミグ25事件の目撃者なのだ。

私が函館西高等学校一年生のときのことだ。函館山の麓の教会群のど真ん中の高台にある古い校舎の教室で、つまらない現代国語の授業を受けていたとき、突然、轟音と共に教室の窓全てが割れんばかりの振動にガタガタと音を立てて揺れた。何事かと思ってクラスの全員が函館市内を一望出来る窓の外に目を向ける。何も見えない。と思ったら、またけたたましい轟音。それでクラスの全員が窓に殺到して空を見上げた。「戦闘機だ」と誰がか叫ぶ。自衛隊の演習かと思ったが、函館上空を旋回するその戦闘機の羽には赤い星がくっきりと見えた。ソ連の戦闘機だ。

当時は冷戦真っ只中で、私は(たぶん同級生も)、とうとう第三次世界大戦が始まったかと思った。授業どころではなくなり、下校となったが、特に爆撃されることもなく、無事家に帰った。直ぐにテレビをつけると、なんと、ソ連の空軍中尉が亡命するため函館空港に強制着陸したというではないか。私は興奮して家を飛び出して自転車で函館空港に走った。すると、警察やらマスコミやらで大騒ぎになっている滑走路脇で、青いシートに包まれたミグ25の機体の一部を目にしたのだった。

この私の記憶の中に強烈に封じ込められていた記憶が、10年以上経って、修習生という立場でまた事件に巡り会えた。しかも、今度は法律家の卵としてこの事件に向き合ったところ、ミグ25戦闘機が「領置手続」で押収されたことなど、法律手続の側面から記録を読むことが出来てとても興味深かった。ミグ25は、当時、ソ連の最新鋭機で、ソ連が機体の機密を守るため函館空港に空爆に来るんじゃないかと、おちおち眠れもしなかった。

後日談になるが、函館西高時代の親友で、一緒に同じ教室でミグ25事件を目撃した芥川賞作家の辻仁成は、この体験を小説「クラウディ」に残した。

ベレンコ中尉は、ソ連空軍での待遇への不満や妻との不仲などが原因でアメリカへの亡命を決意し、ウラジオストック近郊の空軍基地を飛び立ったあと、札幌の千歳空港に、スクランブルするであろう自衛隊機の誘導に従って着陸するつもりだったんだが、一向に自衛隊機は現れず、天候も悪かったので函館空港に強制着陸したという。函館空港の滑走路は短く、かなりオーバーランして止まり、ハッチを開けてコックピットから出たベレンコ中尉は、近づいてきた空港関係者を威嚇するため携帯の拳銃を発砲。あ、それで銃砲刀剣類等所持違反か。当時は発砲罪はなかった。
その後、アメリカに亡命したベレンコは、今も健在で、アイダホで航空イベント会社のコンサルタントをしているらしい。

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