函館修習はじまる
苦労して司法試験に合格し、46期司法修習生となって、湯島での研修後に故郷函館で実務修習が始まった。当時は1年半に及ぶ実務修習で、函館に赴任したのは私を含めてたったの4人だった。高く、透き通るような夏空のもと、函館に着任した。高校を卒業してして以来の函館暮らしは、何もかも懐かしく、とても長閑なものだった。港町らしく、遠くに船の汽笛が響き、函館山麓の教会群の鐘の音がそれぞれアンバランスに共鳴するのを聞いていると、高校生の頃の自分に引き戻される。両親も転勤で函館を離れていたので、一人気ままな日々を送るなか、検察修習が始まり、毎朝、路面電車に揺られて検察庁に通った。
検察修習は、捜査実務が中心で、主に取調べと供述調書作成の実務を経験する。検察官でもない司法修習生が取調べという国家権力を行使して良いのかという議論があったが、研修所見解は検察官同席のもとで行われるのであれば、検察官による取調べと同じと考えてよい、とかそんな感じの見解だったかと思う。ノンポリの私は特に疑問に思うこともなかったが、同期修習生の中には取調べ修習を拒否する修習生が何人もいて、前期修習では検察教官に食ってかかるツワモノもいた。当時は、司法試験の倍率は60倍くらいで、合格するのが宝くじに当たるようなものだったにもかかわらず大学を卒業して何年も浪人をするという世界だった。だから元々サラリーマン的な安定思考の者はいなくて、弁護士として在野で食っていくという気概に満ち溢れた個性豊かな人材が集ってきた。因みに修習生の中で、国家権力の権化みたいな検察官に任官を希望するなんていう偏屈者はほとんどいなかった。私もご多分にもれず弁護士志望だった。既に就職先の目処も立っていた。大学の大先輩が所長を務める、東京神田の独禁法に強い中堅事務所に行こうと思っていたのである。検察修習は、敵状視察といったところだった。前期修習の修了式での挨拶で、所長は、「これから皆さんは全国各地の裁判所に配属され、研修に励むことになります。所長の私としては、何百もの虎を野に放つ思いで毎夜眠れません。」と言って、湯島の会堂は笑いに包まれた。良き時代だった。
検察修習で、最初に配点されたのは万引きのオバさんの在宅事件だった。スーパーでお惣菜を万引きし、レジを通らずに店外に出たところを警備員に咎められたという典型的な万引き事件で、犯行を現認されていたので証拠は固く、事件は単純だった。しかし、初めての取調べは単純ではなかった。