医療過誤と刑事責任
神奈川県立がんセンター(横浜市旭区)で2008年,乳がん手術を受けた40代の女性患者に医療ミスで脳障害などを負わせたとして,業務上過失傷害罪に問われた当時の麻酔科医の男性被告(44)に,横浜地裁は17日,無罪判決(求刑罰金50万円)を言い渡した。
判決理由で,毛利晴光裁判長は被告が全身麻酔の患者を常時監視する注意義務を怠った,との検察側主張について「国内の麻酔担当医が常時監視しているとは必ずしも言えない」と指摘。「不十分な捜査のまま起訴したという疑問がある」と述べた。
弁護側は,常時監視は麻酔科学会の指針で,目標にすぎないとして無罪を主張していた。
起訴状によると,被告は08年4月,女性患者の乳がん手術で,全身麻酔をした後に適切な引き継ぎをしないまま退室。麻酔器の管が外れたため約18分間にわたり酸素供給が止まり,患者に高次脳機能障害と手足のまひを負わせたとした(2013年9月17日11時37分 日本経済新聞)。
大野病院事件や杏林割箸事件など,重大な医療過誤事件が相次いで発生し,医師や看護師等の刑事責任の行方が,社会的な関心を集めてきました。医療過誤事件の場合,以前は損害賠償請求事件などの民事事件だけが主として問題となっていました。刑事事件では,医療過誤は一種の聖域のような状況にあったのです。しかし,世間の医療過誤に対する関心が高まるにつれて,患者側も積極的に告訴状や被害届を提出するようになり,刑事事件として取り扱われるケースも増えてきています。また,ときには,警察は逮捕権を行使して医師を逮捕することすらあります。
上記記事の事件では,麻酔科医の男性が,全身麻酔の患者を常時監視していなかったという点で過失があったのではないか,として業務上過失傷害罪に問われているのです。
医療行為は,患者の生命を繋ぎ止め,心身の状態を少しでも良好なものにするという目的を達成するために,患者の身体に対して直接的に働きかける性質を持ちます。そのため,医療行為それ自体が,患者の生命・身体への危険を内包するものであって,難病治療等のために高度な医療技術を駆使するほどに,その危険性は増大するのです。何等かのハプニングがあって最善の医療活動を尽くせなかった場合に,常に刑事責任を追及されてしまうような事態となれば,医師や看護師は,高度な技術を必要とするリスクの高い医療行為を避けることになるでしょう。そうなれば,本来救われる可能性のあった患者の命が救われないような事態も生じかねません。
1件でも不当な裁判により医師が処罰されれば,医療界は崩壊するとまで言われています(弁護士・棚瀬慎治氏に聞く─「医師を必ず起訴」という新ルートが誕生─改正検察審査会法が施行間近、“医療事故調”議論にも影響)。
このような観点からは,医療過誤の裁判にあっては,患者側の視点とともに専門家(医師)側の視点をも取り入れた公正な判断が求められます。その意味で,医療現場の実態を踏まえて,「国内の麻酔担当医が常時監視しているとは必ずしも言えない」として検察の主張を退けた今回の判断は,評価すべきでしょう。
検察は,その「被害者とともに泣く」という正義感ばかりが先行し,医療現場の実態をしっかり把握検証するという捜査の基本を怠ったと言えます。