記録と戯れなさい
事件に出会い、初めて向き合ったとき、この事件はあの事件と似てるなとか、あのときの結末、つまり判決宣告と同じ感じで終わるだろうなとか、こういった思いに直ぐに縛られてしまうものです。それは弁護士として経験を積んでいればいるほど、自ら進んで「経験」という名の牢獄の囚われの身に陥ってしまうのです。
事務所で、若い弁護士の相談を何気なく聞いていても、実にテキパキと、立板に水を流すように、相談者が巻き込まれた事件の「解説」をし、見通しを堂々と開陳し、相談者から「この弁護士は何でも知っていて実に頼り甲斐がある」と感じさせています。
ただ、初めて事件に向き合ったとき、こういう「経験」から事件に入っていく弁護士は、その経験以上の能力を発揮できず、事件の本質を掴むことも、本当の意味でのクライアント満足も導くことはできません。「経験」「雄弁」「自信」は、時に真相発見にとって最大の障害物になるのです。
私がA庁つまり検事任官4年目で、大阪地検公判部にいたとき、単純な営利目的の薬物事件を担当したときの話です。相手の弁護士は弁護士なりたての新米弁護士でした。まだ登録して2か月くらいの弁護士だったと思います。
被告人は、捜査段階から営利目的を否認し、単純所持を主張していましたが、公判を担当した私は、注射器が200本くらい発見押収されていて、薬物の量も多かったので、「何を無駄な抵抗しているのかしら」「営利目的、当然じゃん」と高をくくっていたのです。要するに、私の「経験上」営利目的は優に立つと考え、公判に臨みました。
罪状認否で被告人は営利目的をやはり否認したものの、その新米弁護士は、検察官請求証拠を全部同意したのです。なんとやる気のない新米弁護士であることか、やはり経験が足りないなと思ったのでした。
ところが、一回結審の裁判で、被告人質問はいつもの否認供述だったのですが、結審後の弁護人の弁論を聞くうちに、私は不安が広がっていき、次第に血の気が引いていくのを感じたのです。
そして、判決の日。何と営利目的が飛んでしまったのです。単純所持で、求刑の半分にも満たない判決でした。検察官請求証拠が全部裁判官に提出できたのに!です。
その後、公判検事の私と捜査検事が、ガン首揃えて、検事正や次席検事に怒られたのは言うまでもありません。
今思えば、私も「4年の経験」に慢心していたのだと思います。
初めて事件に出会ったときは、とにかく経験値を封印し、遠くから記録を眺めたり、時には記録を横に立ててみてしゃがんでその様子を見たり、あるいは、その記録を枕にして瞑想することをお勧めします。あーでもない、こーでもないと、自分が3人くらいいて色々な角度から事件と対話し、記録と戯れることがとても重要だと思うのです。