木を見て森を見ず
刑事事件を見るとき、その細部にとらわれてはならず、全体の大幹を見なければならないとは、修習生のころから検察教官に口酸っぱく言われてきたことでした。
右手で殴ったか、左手か、手の平で触ったか手の甲か、握った包丁は順手か逆手かなど、精密司法の伝統ある日本の司法では、こんな事で検察と弁護士が主張を戦わせ、その挙句、検察主張は矛盾しているから無罪だ、と弁護士はやる。こうして、加害者と被害者のその自然的所為を全体的に観察せず、この時点で既に真実を見失っているのです。
このことは、法律だけではなく全てについて言えることで、異性を見るときでさえ、表面的な魅力の虜となりがちです。背が高い、学歴が高い、収入が高い、ハンサムだなどといったことは、50年、60年スパンでその人間のありようを考えるとき、実につまらない、些末なことです。
近代彫刻の父と言われるオーギュスト・ロダンは、下積み時代の装飾職人だった頃、師匠に、「葉っぱを掘るとき葉っぱが平らだと考えて掘ってはダメで、葉の先が自分に向かってくるような意識で、奥行きを捉えて彫らなきゃダメだ。」と言われてハッとしました。ロダン作品の、内面の魂、生命が外の宇宙に向かって放たれるような彫刻は、こうして生まれました。
法律家も人間つまり被告人を表面的に捉えてはならず、その奥行きを洞察して初めてその生き様が見えてくるものです。それが弁護の真髄に近づく要諦であると思うのです。