決裁が通らない!
検事に任官して最初の身柄事件であったシンナー事件は、検事として、あるいはより広く法律家として基本中の基本を学んだ事件だった。事案の詳細は忘れてしまったが、二人の若者が深夜路上で紙袋に入れたシンナー瓶を吸ってラリっていたところ、警ら中の警察官に職務質問され、シンナー所持で逮捕された事件だった。二人の被疑者を担当したが、いずれも事実を認めていた。紙袋の中のシンナー入りの小瓶は二つ。一本は空でもう一本は三分のニのシンナーが残っていた。法律的には共同所持で何ら問題はなく、供述調書も大雑把に所持を認める内容でまとめあげた。そして、10日間の勾留満期の前日、刑事部副部長の決裁を受けに副部長室に入った。主任検事としては、勾留満期日に在庁略式の罰金に処するつもりでいた。
当時の刑事部副部長は4人、いずれの副部長も、何というか、それまで見たことも出会ったこともない変わり種の変人だった。その4人が狭い副部長室でひしめく様子は、さながら動物園だった。しかし、いずれも将来の検察を背負って立つ検事で、現にその後、全員、重要ポストに就き、検事長まで上り詰めた副部長もいた。華々しい実績をもつスター検事なのである。私の担当副部長は、新任検事の間で死神博士と呼ばれ、昔の武田鉄矢のようなロングヘアーは総白髪で、顔は鬼瓦みたいな顔をして眼鏡の奥で眼光を光らせ、新任検事なんか一噛みで食べられてしまいそうだった。
私は、死神博士の前に直立不動で立って、事案説明、二人とも認めていること、処分については、少年時の前歴しかないので今回は略式罰金が相当である旨を、前日から一人で何回も練習した要領でスラスラと述べた。すると、死神博士は、「中村、この残りが入ってた瓶の方だけど最後に吸って使ったのはどっちだ。」と質問された。取調べでちゃんと聞いてなかった。返答に詰まる。死神博士は立て続けに、「何で2本持ってた、どっちが買った、一緒に買ったのか、金は誰が出した、空のはずいぶん前に使ったのが偶々袋に入っていたんじゃないのか」。私は全然説明出来なかった。二人とも一緒にシンナーを吸って共同所持の認識も認めていたので、取調べでしっかり聞いていなかったのだ。「聞いてません。」というと、雷が落ちた。「略式請求後に正式裁判を申し立てられ、否認したらどうする。」。。
私は副部長室を出ると、慌てて警察に電話して今から警察署でもう一回取調べをする、と告げ、警察署に向かい、取調べをして補充調書を作成した。刑事さんはどうして私が慌てているんだろうと怪訝そうな顔をしていた。
翌日、勾留満期の日、再び死神博士の前に立った私は頭が真っ白になっていた。決裁が通らない。。補充調書も不十分だったのだ。在庁略式請求が出来ない。勾留延長請求も時間的に間に合わない。死神博士は「釈放しろ。」と一言。
私は釈放指揮書を警察に送ると、担当刑事さんは、「検事、放すんすか!」と。こうして、私の検事最初の身柄は処分保留で釈放になった。怪訝そうな顔をしたのは刑事さんだけではない。弁護士も「釈放ですか!罰金は?」と言うので、「また在宅扱いで取調べのため呼ぶので逃げないようにお願いしますね。」とだけ伝えた。
後日、在宅扱いで被疑者取調べをして、ようやく決裁が通り、略式請求の上、罰金刑となって事件は終了した。
今思うと、副部長は、あのときワザと決裁を通さなかったのではないかと思う。真実解明の厳しさを新任検事に教えたかったのでないか。これは確かに私の教訓となり、何故、何故、何故と事実を突き詰めていく法律家としての基本的な姿勢が身につくきっかけとなり、また、事件処理は早め早めに進めないと時間切れとなって大変なことになるという戒めにもなった。そうした姿勢は、弁護士となっても変わらない。