ロンドンからのたより
部屋の片づけをしていたら,懐かしい手紙を発見しました。昔,16年前になりますが,検事のときに行政官短期在外研究で英国ロンドンに滞在して調査研究していたときに,所属庁であった名古屋地検刑事部に送った手紙です。
————————————————–
ロンドンからのたより
刑事部長ならびに刑事部の職員御一同様におかれましてはお変わりなく,お過ごしのことと存じます。
例年になく温暖な気候が続いていると言われているロンドンでも,11月になってからは日増しに寒さが厳しくなってまいりました。早いもので,ロンドンに到着して既に1か月以上が過ぎ,当初は戸惑うことばかりであったこちらの生活にもずいぶん慣れてまいりました。こちらの住まいは,ロンドンの街の中でも最もヨーロッパらしさを漂わせている街のひとつで,ゆったりとしたイギリスらしい生活を楽しんでおります。もっとも,本業の研究活動の方はいまだに手探りの状態で,日本とは全く異なるイギリスの司法制度を理解し,さらに,研究テーマである「簡易迅速な捜査公判のための諸方策」に関して日本の司法制度改革のために有益な情報を収集するにはまだまだ時間がかかりそうです。
私は,既にボウストリート治安判事裁判所を訪問し,裁判を傍聴するとともに,同裁判所で,幸運にもあのピノチェト元チリ大統領のスペインへの身柄引渡し裁判を担当したロナルド・バートル裁判官と面会してお話しをうかがうことができ,現在は,ロンドン中心部にある中央刑事裁判所(週に2,3日)とホースフェリー治安判事裁判所(週に2日)を中心に訪問を実施し,裁判傍聴ではオブザーバーとして弁護士席の横に座らせていただいており,また,裁判官や書記官,保護観察官等にインタビューを実施して制度の理解に努めております。このような研究プランのアレンジメントは,主に日本大使館の一等書記官(43期の検事)にお世話になっているのですが,自分でも積極的に手紙を書いてはイギリス人の法曹人脈を作り,訪問先を増やしており,先日も「リンカーンズ・イン」というバリスター(法廷弁護士)の養成機関からお返事を頂き,今月末に同所を訪問し,オックスフォード大学の学生と一緒に刑事法に関する学者の講義を聞いたり,バリスターへのインタビューを実施したり,昼食会に参加する予定になっております。そして,年が明けてからはいよいよCROWN PROSECTION SERVICE(検察庁)で2週間,調査活動を行う予定になっております。
イギリスの刑事司法に対する私の理解がまだ十分ではないために,残念ながら今の時点で詳しい情報をお伝えすることはできませんが,先日,ホースフェリー治安判事裁判所で傍聴した器物損壊の事件で感じたことをお話しすると,その事件は,その日が第1回公判だったのですが,午前中に3人の証人尋問と被告人尋問とが集中的に行われました。最後の尋問が終わって,裁判官が何かを話し始め,検察官や弁護人が裁判官のその話を書き留めていたので,その様子を見て私は次回期日の打ち合わせをするのかと思ったのですが,よく聞いてみると,その裁判官の話は「判決」であることが分かったのです。しかも,裁判官は,結論として「dismiss」(無罪)と言ったので,びっくりしてしまいました。否認事件なのに1回の公判で,しかも即決で判決が下されたのでした。確かにいずれの証人の証言も被告人の犯行を裏付けるには弱いもので,その証言を聴きながら,私は「よくこんなずさんな捜査で起訴したな」と思っていたのですが,日本の検察官ならば当然次回期日までに警察を指揮して新たな目撃者探しをするなど補充捜査を尽くして体勢を立て直すところが,あっさりと即決で無罪の判決が下されたので驚いたのでした。しかも,論告も弁論もなく,証人尋問が終わると間髪を入れずに判決言渡しとなったのでした。
判決言渡し後に法廷を出ると,珍しいアジア人が傍聴していたことに興味を示したのか,検察官が私に声をかけてきました。そして,彼が言った言葉は,「フェアーな判決だ。無罪で当然の事件だ。」という言葉だったので,二度びっくりしました。日本の公判部の検察官であれば(私だけかもしれませんが),「どうして無罪なんだ。」,「控訴審査の準備をしなければならないな。」,「しばらくの間は早く家には帰れないな。」,「もっと補充捜査をしておけば良かったな。」「2号書面の請求しなかったのはまずかったな。」などとグルグルと頭を駆けめぐり,その日一日は悲劇の主人公になりきるのですが,こちらの検察官は無罪を勝ち取った弁護人と判決後に握手をしてその健闘を称えていたのでした。しかも,その検察官と話をしていたら,その人は,CROWNN ROSECUTION SERVICE(検察庁)の職員ではなく,そこから嘱託を受けたバリスターだと言ったので,ますますイギリスの制度が分からなくなってしまった次第なのです。
このイギリス人のバリスターは,とても親切な方で,いつでも事務所を訪問してほしいと言って名刺をくれたので,その日,さっそく手紙を書き,その返事次第では,近日中にそのバリスターの事務所を訪問し,事件の詳細や制度についてお話を聞く予定であります。
このように,イギリスの司法制度には驚かされることばかりなのですが,とにかく積極的に人脈を作って話を聞き,多くの文献を読まなければイギリスの制度は理解することができないので,手探りながらも,これからも積極的にイギリス人にアプローチして情報を収集しようと考えております。
なお,同伴した家族も元気に暮らしております。妻は,こちらでフランス語学校に通い,イギリス人学生と一緒になってフランス語を勉強しておりますし,2歳の息子は,イギリス人のベビーシッターに日本の新幹線のオモチャを見せて自慢しています(確かにロンドンの列車より日本の列車の方が安全のようです)。私の私生活で特筆すべきことは,家の近くに柔道(JUDO)の道場があったので,入会し,偶にイギリス人と一緒になって柔道に励んでいるということです(因みに私は柔道初段です)。
このような充実した在外研究生活を送ることができるのも,繁忙庁でありながら私を快く海外に送り出していただいた皆様のおかげであり,感謝しております。在外研究生活も残り3か月半となりましたが,皆様の御健勝をお祈りし,また,名古屋での再会を楽しみにしております。
ロンドンにて
1999年11月13日
中村 勉
———————————————–
裁判の形勢が不利になったら警察を指揮して補充捜査をし,何とか有罪に持ち込むという発想。
検事らしいいなあ,この往生際の悪さ?