わが“即独”体験記
私は,司法修習終了後に検事に任官し,退官した後は,あさひ法律事務所(現西村あさひ法律事務所)に就職したので,厳密な意味での,“即独”を経験したことはない。ところが,事務所在籍中,政治家になることを思い立ち,故郷の函館で選挙区支部長として政治活動をすることになったとき,一念発起して事務所を退職し,函館で弁護士業を始めた。これが私のいわば“即独”体験の始まりであった。
当時,貯金はゼロ。むしろ留学費の借金がまだ残っている中での函館移住であった。妻子を東京に残していたため,毎月仕送りをしなければならず,生活が大変であった。弁護士会費も高く,確か月7万円位であったと思うが,弁護士会の事務職員さんは,「中村先生,会費なんて国選一件受任すれば払えるじゃないですか。」などと笑いながら気軽に仰っていたが,会費の支払いが遅れたときの取立ては厳しかった。
函館市内の住宅地の木造アパートに新事務所を構えたが,新事務所と言っても私の住居も兼ねた1DKで,6畳のダイニングキッチンが事務所,3畳和室が私の住居で,仕切りにアコーディオンカーテンを引いた。もちろん,事務職員を雇えるはずがないし,雇っても執務スペースがない。家賃が3万円か4万円ほどだった。東京丸の内の高層ビルにあった事務所から,この1DKの“新事務所”に移ってきたわけで,哀れに思う人もいたものの,自分としては,学生時代の野心家に戻ったような爽快さで函館弁護士時代を切り開いていった。
こうして,事務員なしで,コピー取りから郵便局への用事,事務所アパート前の雪かきなど何でも全部自分一人でこなして,函館で弁護士業を約3年間続けた。政治家の夢を断念して東京に戻ってきたが,この函館時代に,手がけた国選事件が年間70件くらい,自己破産事件,離婚事件なども初めて手掛け,依頼人にとても感謝された。得意の刑事事件では,業務上横領の冤罪事件で無罪を勝ち取り,母子の内縁の夫に対する殺人・死体遺棄事件では,プロボノ(完全無償)で弁護を担当し,札幌高裁で量刑不当で原判決破棄の判決(少年については,少年法55条移送の画期的判決)を獲得するなど,全国テレビで放映されるような重大事件で実績を残した。そして,このとき,「刑事専門事務所」という,今日の中村国際刑事法律事務所の原型たる青写真が頭に浮かんだのである。
どうして,ゼロからスタートした函館で頑張ることが出来たか。それは,自分の中に,「弁護士なんだから食いっぱぐれるはずがない。」という妙な信奉心があったからだと思う。今,若手弁護士の就職難が伝えられる。こうした現状は改善しなければならないが,他方で,今一度,「俺は弁護士なんだ」という自信を取り戻し,その可能性にチャレンジして頂きたい。苦しみ悩み抜いた若手弁護士たちの中からこそ,新しい弁護士のビジネスモデルが誕生すると信じるからである。